仏跡巡礼の旅

インド お釈迦様ゆかりの地

王舎城ラジギール(ラージギル、ラージャグリハ)

王舎城の故地に点在する数々の遺跡

王舎城の故地に点在する数々の遺跡

ラジギールはガンジス平原の中にあって、この地域には珍しく岩山に囲まれたところにあり、紀元前6世紀頃から栄えたマガダ国が都をおいたところです。 岩山に囲まれ自然の要塞として大変に栄え、以来中世にイスラム教がインドに侵入するまで、歴史の主要な舞台でした。
現在は街と云うより村に近いのですが、お釈迦様と仏教教団が最初に拠点としたところとして、また、ジャイナ教の始祖マハビーラが修行をした場所として聖地になっています。
旧都を囲む岩山の頂上にはジャイナ教の寺院が建立され、霊鷲山や日本山妙法寺平和記念仏塔などがあることから、偉大な(ラージ)、丘(ギリ)がこの地の名の由来になっています。
仏教においては、お釈迦様が法華経をはじめ大無量寿経、観無量寿経を説かれた大切な聖地です。

王舎城(ラージャグリハ、ラージャガハー)

王舎城跡地

王舎城跡地

マガダ国の首都でラージャ(王)の住むところ(グリハ)から王舎城と名付けられました。
お釈迦様の時代には大変栄えていましたが、インド政府が将来のためにと開発を禁止しており、2500年が経った現在は深い草木に覆われたジャングルが残っているにすぎません。
それでも、ビンビサーラ(ビンバシャラ)王が王子のアジャセに幽閉されたた七重の牢獄跡や金庫として利用されたといわれる遺跡、などが比定されており、将来の発掘が待たれます。

霊鷲山(耆闍崛山)

霊鷲山香室

霊鷲山香室

王舎城の東の城外にあるのが霊鷲山です。
霊鷲山はお釈迦様が滞在され、説法をされた聖地で、この地の岩が鷲の形をしていることから霊鷲山と名付けられました。
また、別説では、この地が鳥葬をした場所であり、鷲によって魂が天に運ばれることから霊鷲山との説もあります。
山頂は100人程が座れる程度の広さがあり、西側に四畳ほどの講堂跡があり、お釈迦様はここで法華経や観無量寿経をはじめとして、沢山の法を説かれました。
山頂を少し下ったところには阿難尊者や舎利佛尊者、目連尊者などが過ごされたといわれる岩穴なども残っており、朝日や夕日に訪ねると、何ともいえない感動を覚えます。
また、霊鷲山から東に位置する山を望むと、紀元前三世紀に建立されたとされるアショーカ王建立の仏塔跡がご覧いただけます。(参拝は霊鷲山、または多宝山より約1時間をかけて山道を歩きます。 一部未整備のところがあります。)

霊鷲山へはバス停から約1km(高低差150m)の参道を登ります。 尚、ご不安な方には別途有料で駕籠を利用することができます。

ちなみに、霊鷲山は明治に活躍された大谷探検隊により発見、比定されました。

竹林精舎

竹林精舎

竹林精舎(ヴェヌワン)

王舎城の北の城外にあるのが竹林精舎の遺跡です。
お釈迦様は修行者時代にこの地を訪れた時、ビンビサーラ王と親交を深めたこともあり、また、当時最も栄えていた国であったことから、ガヤでカッシャパとその弟子千人を教化した後、ビンビサーラ王とマガダ国の人々を教化するために再度この国を訪れました。
カッシャパが弟子になったことでお釈迦様の名声は既にマガダ国に伝わっており、ビンビサーラ王はお釈迦様に出会うと共に教えに会い、教団に帰衣すると同時に、仏教教団に一同に過ごすことができる安住の地を提供しました。
暑いインドで広い蔭をつくる竹が一体にあったことから竹林精舎と名付けられました。 竹林精舎には近年タイより送られた降魔成道仏を安置する小堂が造られ、沐浴をされた池が残っています。
沐浴池の北側には、歴2500年の際に日本から送られた仏像が安置され、西側に沐浴池から発見されたといわれる立像のレプリカが安置されています。
仏歴2555年を迎えた2010年から2011年にかけて、竹の寿命が50年といわれるように竹林精舎の竹が一斉に枯れましたが、新たな竹が緑を復活させています。

七重の牢獄跡

七重の牢獄跡

七重の牢獄跡

王舎城内の南東部にある広大な広場の様な遺跡が七重の牢獄跡の遺跡です。お釈迦様のいとこにあたるダイバダッタ(ダイバ)より出生の秘密を明かされたマガダ国の王子「アジャセ」は、その恨みから父を亡き者にして王位を継承しようとビンビサーラ王を幽閉しました。
善政をひいたビンビサーラ王は臣民の信頼も篤く、ビンビサーラ王を幽閉するために七つの壁で囲まれた牢獄を造り、そこに幽閉したとされています。
現在の遺跡は外郭の牢獄の壁の基礎が四角く整備され、南側の一角に二番目と三番目の壁の一部の基礎部分が露出しています。
ちなみに、東約2kmにある霊鷲山を望むことができます。

七葉窟

七葉窟

七葉窟

王舎城北西側の山頂を少し下ったところにある洞窟が七葉窟です。
お釈迦様の晩年には仏教教団は大きくなり、大勢の修行者が研鑽しておられました。 しかしながら、教団で修行をする弟子の中には熱心でない者もおり、お釈迦様の入滅の知らせに、安易な道に走ろうとする者も現れました。
そのことを知った大迦葉尊者は、お釈迦様が各地でされた説法をひとつにまとめようと、5百人の阿羅漢にお釈迦様の晩年に行動を共にされた阿難尊者を加えて、1カ所に結集してお説法の整理をされたました。 
七葉窟は、世にいう「第一回仏典結集」が行われた場所であり、「如是我聞」ではじまるお経が誕生した聖地とご案内することができるでしょう。

七葉窟入口

七葉窟入口

七葉窟へは、ヒンズー教徒が湯浴みに集う温泉生者から階段と参道を辿って参拝に訪れることができます。 登り口から直線で約1kmですが、登り口から一気に150m程を階段で上るため、通常往路に約1時間を要します。
七葉窟は5百人の阿羅漢が結集したので広い洞窟であったろうと思われますが、地震によるものか自然崩落なのか、現在は小さな洞穴が残っています。
霊鷲山同様、登り口(温泉精舎下)から駕籠を利用することができます。
ちなみに、ホッケ・ホテルやレジデンシー・ホテルからご覧にただくことができます。

平和記念仏塔(多宝山)と新竹林精舎(日本山妙法寺)

王舎城を囲むぞれぞれの岩山には、この地で修行をしたマハビーラが開祖であるジャイナ教の寺院が建っている中で、車窓からもご覧いただける唯一の仏塔が平和記念仏塔(シャンティー・ストゥーパ)です。
霊鷲山はお釈迦様が法華経を説かれた聖地であることから、日蓮宗の藤井日達猊下が「仏教西漸」を提唱され、聖地である多宝山の山頂に白亜の仏塔が建立されました。
仏塔は日本の方によって護持され、山頂からは霊鷲山を望むことができます。
尚、仏塔へは霊鷲山の参道の途中から登ることができ、また、登り口にあるリフトを使うことも可能です。
同様に、この地に建立されたのが日本山妙法寺・新竹林精舎です。
新竹林精舎は、竹林精舎の西約300mにございます。

温泉精舎

温泉精舎

温泉精舎

王舎城の北城壁の北西側の岩山の麓に温泉が湧き出しており、ヒンズー教の寺院があり、温泉が整備されています。
温泉は4カ所あり、元来はカーストにより入浴できる温泉が決まっていました。
最上には男性用と女性用の温泉があり、40℃弱の温泉が湧き出しています。
日中には近郷の人々が湯浴みに訪れ、ヒンズー教の祭の時などは特に賑わっています。
ヒンズー教寺院の境内地であることから、見学の際には真摯な態度が必要で、必ずガイドを伴って見学されることをお薦めします。

酔象調伏の地

酔象調布

酔象調伏

お釈迦様が年老いてこられた晩年、いとこであるダイバダッタはお釈迦様に代わって教団の長になろうと進言しましたが、お釈迦様はその申し出を断られました。
そこでダイバダッタはお釈迦様を亡き者にしようと策略を練り、マガダ国のアジャセ王子から発情した象を一頭借り受け、お釈迦様の行列に突進させたといわれています。
大変に利口な象も発情期には荒くなって御することが難しく、いかなお釈迦様といえども象に踏み殺されるだろうと解き放ったところ、荒れくれた象もお釈迦様の前に出た途端に温和しくなり、策略は失敗に終わりました.。
発情した象のことを「酔象」と呼び、象がお釈迦様の前で平伏したことから「酔象調伏の物語」とし後世に伝わっています。
この地は、ダイバダッタが象をお釈迦様の行列に解き放った場所だとされています。

王舎城南城壁跡と轍の跡

王舎城 南門跡と城壁

王舎城 南門跡と城壁

ブダガヤから王舎城に向かうと、それまでの広い農地と違って小高い岩山が車窓に広がると王舎城に到着します。
二つの岩山が稜線をあわせた間が小さな峠になっています。
稜線にはマガダ国の南側の城壁の基礎が再現されており、当時の様子を窺い知ることができます。
また、峠にはヒンズー教のカーリー女神を祀る祠があり、道中の安全を願って賽銭を投げ入れる運転手の姿をご覧いただくこともございます。
また、南城壁を北に向かって500m程のところに轍の跡が残っています。
岩盤の上を重い荷物を惹いて南門に行き来していたのか、荷車の轍が深く刻まれていて、当時の営みの一端を知るような遺跡です。
また、轍の跡を辿って南側の路面には4世紀から5世紀にかけて掘られた文字が残っています。 残念ながら解読はされておらず、将来を待たなくてはなりません。

マニアル・マート

王舎城跡の中心近くに石を煉瓦を組み上げた遺跡がマニアル・マートの遺跡です。
この遺跡は、マガダ国のビンビサーラ王時代には穀物貯蔵庫として使われたといわれ、後のアジャセ王時代になると金庫として使われたといわれています。
「この金庫に隠されていた財宝によって、マガダ国滅亡後にこの地に興った王朝の軍資金が賄われた」とは地元ガイドの話で、当時の繁栄を偲ばせる話です。

ソーナ石窟

ソーナ窟

ソーナ窟

マニアル・マートの東にある岩山にある石窟で、ジャイナ教徒のために寄進された石窟であるとされています。
ただ、中央にある石窟には面白い伝説が残っており、壁面には、線刻ながらがお釈迦様のお姿が掘られています。
さて、その伝説とは、「ソーナ石窟の南側の壁に岩の扉のあり、その中に純金の仏像が安置されていて、弥勒仏が出現する時には自然に扉が開いて黄金仏が出現する」というものです。
鶏足山の伝承とも重なりますが、黄金仏を扉の奥に安置した方こそ大迦葉尊者で、この地で入滅されたともいわれています。
現地ガイドの話に寄れば、その伝説を聞いた英国人が大砲で扉を開けようとしたがびくともしなかったそうで、大砲の弾が当たった跡が残っているとのことです。

ラジギール近郊のゆかりの地

ナーランダ仏教大学跡

舎利仏ストゥーパ

舎利仏ストゥーパ

マガダ国の故地ラジギールから北に約15kmにある仏教遺跡です。
お釈迦様の十大弟子のなかで智慧第一と名声高い舎利佛尊者は、お釈迦様に先立って入滅(お亡くなり)になりました。
その際、お釈迦様に帰郷して入滅することを願われ、舎利佛尊者を慕う弟子達と共にこの地に故郷されて入滅されました。
その後、この地に舎利佛尊者の仏塔が建立され、智慧第一の尊者に由来して僧院が造られる、5世紀には大規模な仏教教学の拠点が建立されました。
その後、7世紀と9世紀に大改築が施されたといわれています。
特に、7世紀には中国僧「玄奘三蔵法師」がこの地を訪れ、6年間滞在した後、仏教経典を中国に持ち帰り、訳業に従事しました。
玄奘三蔵法師の残した文献に、学僧の数1万、教師の数千五百と当時の様子が記されています。
また、9世紀になると密教学が盛んとなり、ナーランダ仏教大学の学長がチベットに招来され、中国からの仏学を論破したことにより、チベットに今日のチベット仏教が根付いたとされています。
ナーランダ仏教大学は、まさに私達をはじめとする後期仏教の故郷と申しても過言ではありません。
残念なことに、12世紀になると、この地に侵入してきたイスラム教徒により破壊され、楼閣や蔵経所に保管されていた経典類を火を放ち、その炎は半年間に亘って燃えていたといわれています。
現在の遺跡は当時の六分の一の規模ですが、寺院の跡が6カ所、僧院の跡が11カ所発掘されており、壮大な当時の様子を計り知ることができます。

舎利佛村と目連村

舎利弗記念堂

舎利弗記念堂

ナーランダ仏教大学の近郊には、この地でお釈迦様の弟子となった高弟お二人の出身地が比定されています。
中でも智慧第一と名声の高い舎利佛尊者の村はナーランダ仏教大学跡の近くにあり、インド仏教会によって一部の整備された跡が残っています
普段は訪ねる人も少なく、寺院には鍵が掛かっていますが、仏塔の基壇などが草に覆われ、仏教会により建立された瞑想センターの建物が廃墟のように佇んでいます。
また、舎利佛尊者と同じく、神通第一と名声の高い目連尊者もこの地の出身で、残念ながらまだ複数の場所が候補に挙がっています。
ただ、それぞれの村を訪ねると、仏塔の基壇と思われる小高い土盛りや彫刻の破片を見つけることができます。

クルキハール村

クルキハール村 仏像

クルキハール村 仏像

ブダガヤとラジギールの間にある村がクルキハール村で、お釈迦様も布教の途中に度々滞在されたといわれています。
この村は十大弟子の大迦葉(マハー・カッシャパ)尊者が出身されたといわれる村です。
遺跡はまだ充分な発掘調査はされておらず、直径20m程の仏塔があったといわれる基壇部の小さな上にヒンズー教の寺院があり、小彫刻が一体保存されています。
また、村の中にあるヒンズー寺院にはお釈迦様の座像をはじめとして、十数点のレリーフが壁に埋め込まれています。
村の人々は、この地が大迦葉尊者の出身地であることやお釈迦様が遊行の道中に度々滞在されたと信じています。

王舎城西門跡とカロール村

ブダガヤで正覚を得られた後、ガヤの街でカッシャパ三兄弟とその千人の弟子を従えて王舎城に向かわれたお釈迦様は王舎城の西門に到着されたとされています。
高名なカッシャパ三兄弟とその弟子達を弟子とされたお釈迦様の評判は王舎城にも既に聞こえていました。
お釈迦様が真理を求めて修行をされていた時に出会われ、再会を約束したマガダ国のビンビサーラ王は、きっとその時に別れた若者であろうと、お釈迦様とその弟子方を王舎城の西門で迎えたとされています。
現在、西門であったといわれるところには、貯水池から見つかった座仏が安置され、近くの学校に仏像のレリーフが二体安置されています。

また、近郊のカロール村にもお釈迦様が度々滞在されたとの伝承があり、村内のヒンズー寺院には小レリーフが何点か残されています。
同様に、この付近の村や道路沿いに小レリーフが残っており、伝説の真偽は不明ながら、この付近で相当に仏教が繁栄していたことを窺い知ることができます。